学問のすゝめ

【要約】福沢諭吉著『学問のすすめ』三編・現代語訳

福澤諭吉著『学問のすゝめ』三編の要約です。
本書は、初編から17編まであり、本記事は、その3編の意訳要約となります。

【国は同等なること】

第二編にて、富強なる人間も貧弱なる人間も、その権理は同等であり、国民と政府も、その権理は同等であることを説明しました。

ここから広げて、国家と国家の間のことを論じていきます。

 

「国家の権理は平等、有様は不平等」

国は人の集まりであり、日本は日本人の集まり、イギリスはイギリス人の集まりです。
日本人もイギリス人も同じ天地の間に生きる人々であり、お互いにお互いの権理を邪魔してはいけません。
これは国の人数がいくら多くても同じことです。

 

いま世界を見渡せば、欧米の国は富んで強く、アフリカやアジアの国は貧しく弱いでしょう。
しかし、貧富・強弱は有り様の話なので、そもそも同じであるはずがありません。

ですから、富強な国が貧弱な国に無理を強いるのは、力士が病人の腕を折るのと同じで、国の権理として許されるものではありません。

 

「有様は勉強によって入れ替わる」

今の日本も有り様の話では、ヨーロッパ諸国の強さには敵いませんが、国の権理としては全く同じです。
この権理が捻じ曲げられるなら、世界を敵にしたとしても恐れる必要はないのです。

貧富・強弱の有り様の違いは天の定めではありません。
人が勉強するかしないかによって分かれるのですから、昔は富強であった国も貧弱な国となる場合があります。

 

私たち日本も勉強に励んで自立し、日本を富んだ強い国にするならば、西洋人の力に恐れる必要もないのです。

道理に沿ったものとは交流し、道理に合わないものは拒否すればいいのです。
これが一身独立して一国独立するということです。

【一身独立して一国独立すること】

前条で説明した通り国家と国家は同等です。
しかし国民に自立の気力がないときは、国家の権理を発揮することができません。
そのようになるのは次の三ヶ条です。

 

「第一条 独立の気力なき者は国を思うこと深切ならず」

自立とは、自分で自分の行いをコントロールし、他に依存しないことです。
自分で道理に照らして物事を判断し、対応を間違えないのは、他人の知恵によらない自立です。
自分で労力を払い、家計を豊かにできるのは、他人の財産によらない自立です。

人々がこの自立心をなくして他人の力に依存しようとすれば、世の中は依存する人だけになり、支える人はいなくなってしまいます。
まるで手引きのない盲人の行列のようではありませんか。

 

ある人は「世の中には無知が千人、知者が千人いる。知者が上に立って支配すればいいじゃないか」と言います。

これは間違っています。
みんなを支える力がある人は、一国で千人に一人くらいでしょう。

 

例えば、人口100万人の国があったとします。
このうち1000人は知者であり、99万9千人は無知の人です。

知者がみんなを支える能力を発揮して、無知の人を愛したり養ったり叱ったり慰めたりしたとしましょう。

無知の人も知らないうちに、上の命令に従って平穏な生活ができるかもしれません。
しかし、この国の人は、主人と客人の二手に分かれてしまいます。

知者である主人は国を支えて、無知である客人は何も知らないままです。
客人はお客さん気分なので、不安も少なく、国のこともあまり心配しません。水くさいですね。

 

国内はそれでいいかもしれません。
ですが、外国との戦争になればどうでしょうか。
無知な客人は、私たちはお客なので関係ありませんと言って逃げてしまうでしょう。
そうすると、この国の人口は、数字の上では100万人ですが、いざ国を守る段階ではたったの1000人になってしまうのです。
とても一国の独立は叶いません。

ですから、外国に対して自国を守るためには、自由独立の気持ちを国中に溢れさせて、みんなが国民としての役目を発揮する必要があります。
自国民の土地なのですから、国を思うことは我が家を思うことと同じでしょう。
国のためには、財産だけでなく命を投げても惜しくはありません。これが報国の大義なのです。

 

政府と国民は利便性のために、お互いの持ち場を分けているだけです。
国全体のメンツに関して、国民は政府だけに任せて他人事でいられるでしょうか。

国籍があれば、その国で生活をする権理があります。
国民としての権理があるのですから、国民としての役目がないわけがないでしょう。

外国から自分の国を守る有事には、自立の気力がある国民こそが国を想う国民です。
自立の気力がない国民は、国に不親切な国民であることを知っておきましょう。

 

「第二条 内に居て独立の地位を得ざる者は、外にありて外国人に接するときもまた独立の権義を伸ぶること能わず」

自立の気力がない者は、必ず他人に依存します。
他人に依存する者は、必ず他人を恐れます。
他人を恐れる者は、必ず他人に媚びます。

いつも他人を恐れて媚びる者は、だんだんとそのことに慣れてしまい、議論するべきことも議論せず、人を見れば服従するのみです。

「習慣が人をつくる」とは、まさにこのことです。
習慣は簡単に変えられるものではありません。

 

いま日本は四民平等となりましたが、平民の根性は昔のままでしょう。
発言や受け答えが卑しく、目上の人と会ったら、少しの理屈を話すこともできません。

立てと言われれば立ち、踊れと言われれば踊ります。
その従順さは、家で飼っている痩せた犬のようです。
全く気力がない恥知らずで厚かましい人間です。

 

江戸時代は、民衆の気力がない方が、政治としては便利だったかもしれません。
だから昔の役人は、民衆を従順にさせることが得意でした。

しかし今、外国と交流を始めたからには、このことが大きな弊害となっています。

例えば、田舎の商人が海外と交易をしようと横浜に来るとびっくりするでしょう。
まず外国人の大きさに驚き、資金の多さに驚き、商館の大きさに驚き、蒸気船の速さに驚き、勇気を失うはずです。
外国人と取引するときには、その駆け引きに驚き、無理な理屈を言われることに驚くでしょう。
それだけでなく、相手の威圧感に怖くなって、大きな損害を受け入れ、屈辱を味わうこともあります。

これは一人だけの損害ではありません。国の損害なのです。
一人だけの屈辱ではありません。国の屈辱なのです。

今までの日本の平民は、まるで臆病神の手下のような根性でした。
大胆不敵な外国人に会って、勇気を失うことは無理もないことです。

これらが国内で自立しない者が、国外でも自立できないことの証拠です。

 

「第三条 独立の気力なき者は人に依頼して悪事をなすことあり」

江戸時代には名目金といって、大名の権威を借りて、無理な督促を行う高利貸しが多くいました。
そのやり方は実に憎むべきものです。

自分のお金を貸して返ってこないのであれば、政府に訴え出ればいいのです。
この政府を恐れて訴え出ることも知らず、他人の権威を借りてその力によって督促をするとは、なんと卑怯なことでしょうか。
世間には、外国人の権威を借りる者までいたようです。
確証は得ていませんが、昔のことを思えば、今の世の中にもいるに違いありません。

 

外国人の権威を借りて悪がしこいことをする者がいたら、それは国のわざわいとなります。
わざわいは思わぬところで起きるものです。
国民に自立の気力がなければ、売国というわざわいも、それに応じて大きくなります。

この条で最初に言った「人に依頼して悪事をなす」とはこのことです。

 

【自己の独立を謀り、他人の独立を助け成すべし】

以上の三ヶ条はすべて、国民に自立の心がないことから発生する災害です。

いまの時代に生まれ少しでも愛国の気持ちがある者は、官民を問わず先ずは自身の独立を思い、余裕があれば他人の自立を助けるべきです。
父兄は子弟に自立を教え、教師は生徒に自立を勧め、士農工商みなが自立して国を守りましょう。

 

大まかにいえば、人を束縛して自分一人だけが安心するよりも、人を自由にして苦労をともにすることの方が断然優れているのです。